大切なご先祖供養について、著書より紹介いたします。
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  これと同じようにお経も、仏様がこの言葉を受け取られた時、この言葉は、発する者が意味がわからなくとも、カとなって働くのである。特にこれに祈りの心がこもっておれば、強くなって働くのである。言葉の内容ばかりではない。人が心の底から発する言葉というものは、大きな力を発揮するのである。
  むろん、そうはいっても、その言葉の内容、お経の場合、その説かれている内容がわかれぱそれにこしたことはない。しかし、それ以前の問題として、これら祈りの言葉というものは力があり、例えば先祖供養の場合、読経によって先祖の霊が満足し、ひいては、廻向というが如く、お経を唱えた人に功徳が及ぶのである。
  だから、お経というものはまず一生懸命に唱えることが大切である、ということである。そして、祈りの心をその中に込めることである。いってみれば信念の発動であって、人間と仏を結びつける行為といってもよいわけである。
  そこで、僧侶が唱える読経というものは、俗人が行なう読経と少し違うのである。なぜ、祈願や供養の時に僧侶を招聰しお経をあげてもらうかというと、これは僧侶の読むお経が俗人よりうまいからではなく、それなりの修行を積み、作法を心得、儀といって、そのルールを知っているからである。いわゆる、専門家であるといえよう。
  テニスのうまい人がいくらうまいといっても、プ口のプレイヤーにはかなわない。それは、長年培われたトレーニングと技術を身につけているからである。マッサージということは、誰でもできることであるが、素人がやるのとプロのマッサージャーがやるのとでは、その効き目が違う。これはつぼというものを知り、どうすれば凝りというものがはぐせるかという、体験に基づいているからである。
  そこで僧侶の場合、これら供養祈願のために祈るという場合、手に印を結び、口に真言を唱え、心から祈るという行為を一致して行なうわけである。これは修行のといえよう。だから、これらの素地のない俗人と比ベて、僧侶には格段の差があるといってよい。
  このようなことから、お経を唱えるということは、僧侶にかかわらず、カをもち功徳を得ることができるのである。そして、僧侶を招聰し、読経を願うということはより功徳を得ることができるので、専門家にその祈りを託すことにもなるわけである。
  そこでいいたいことは、意味がわからなくして読経してもカは確かに存在するが、これがわかればなお深まる、ということである。従って、読経の時には予め経典を用意し、その文字を目で追ってみることである。漢字ばかりでわからないという人もあるが、それを目で追っていると、なんとなく、そこに書かれていることが理解できてくるから不思議なものである。また、自らその経文を口にし、目で追い、解そうとするならば、その深まりを覚えるに違いない。いまひとつ、本でも買ってきてその解説をひもとけば、それからというものは、お経を読むことの大切さとありがたさに目が開けるに違いない。
  現代人は古語を忘れ、多くの人が漢字のもつ意味を解さなくなり、頭から難しいものと決めつけてしまっている。昔は、漢字の羅列であっても、多少の教養があれば、見ただけで解せたわけである。
  だが、昔の人と現代人とそう頭の差があるわけでなく、むしろ現代人の方が知識教養の点では上回り、平均化している。求道の心と勉強さえ行なえば、自ずとお経占いうものの意味がわかってくるに違いない。読経の功徳を信じ、それを揃り下げるならば、必ずやその真理に気づき、新しい人生が開けるに違いない。


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