1なぜ先祖供養が必要か
「今、我身が在る」ということは、我身を生んでくれた父母があり、祖先があるということである。決して、我身が我身を生んだわけではない。ところが、人間は自分というものを一番大切にし誰よりも自分を愛するものであるが、とかく、この我身が何処から来たかということを忘れがちである.どのような人間にも両親があり、先祖があるわけである。先祖.両親が存在しなくて、自分はありえない。こう考える時、その命の流れの根源に対して感謝と尊敬の念を抱くのは当然である。
仏教は三世を説く。過去・現在・未来のこの時の流れに人間や物事は存在する、と説く。
人間の一生は平均的に七十有余年というが、この三世の時の流れの中にあっては、考え方によれば、七十有余年の歳月というものは瞬時にすぎないわけである.未来永劫続くであろうこの時の流れの中に、人間は生きているわけである。そして、生まれた者は必ず死ぬという宿命を担っているわけである.
そしてまた、子がどういってみても否定できないことは、両親があるという事実である。
こうした中にあって、過去、即ち親や先祖に対して心を向けるということは当たり前のことであり、大事なことである。この心構え自体が、人間としての生き方、姿勢にも大きく関わりあってくるものである。 ところが、現代人は已れ中心主義の考えをもち、他人より自分、親の存在より已れ、と考えがちである。
このような風潮にあって、今、先祖供養という我身のルーツに想いを至す時、現代人が失いつつある心の根源を再発見するように思えてならない。そして、祈りの心というものに気づく時、輝くような人間性が現われてくるのではないか。どのような無信心な、宗教というものを信じない人でも、必ず祈りというものをもっているものである。人によってその対象は様々である一時には仏様であり神様であり、キリスト様である。自分自身ということもある。また、人自然であり、目に見えない荷物かに向かって祈るという場合もある。そして、この祈りというものは人間特有のもので、動物にはない。祈りというものは、最も人間の純粋な姿といえよう。祈る世界には、悪人も善人もないわけである。
こうした中で自分自身が、まず親によってこの世に生まれ育てられてきたということと、また、その親の親に報思の念をもつということは、当然の祈り行為であり、人間として忘れてならないことである。
仏教は、この先祖に対する報恩の行為を善行と説き、それによって析る者自身が果報を受けると説くのである。
|