はじめに
自分が今ここに生きている−−−このことを、いま一度多くの人に考えてもらいたいと思い、私は筆をとった。
科学や生活文化の発達、核家族化などの中にあって、人はともすれば,自分は一人でこの世に存在し、生きているんだ。このような錯覚に陥りがちであり、現にそうした気持の人も多いようにみうけられる.
ところが実は、そうした人々ほど、あいもかわらず、様々な悩みを抱え続けたままなのである。そして、不平不満やストレスでたまりたまった精神の疲れはますます心身をむしばむ、という悪循環の中に自らを置いているといっても過言ではなかろう。
このような現在であるが故に、私は一人一人に、自分の原点=自分がいま存在していることを、ぜひ一度深く見つめてごらんなさい、といいたいのである。
人は、誰一人として木の股から生まれたわけでもなけれぱ、空から降ってきたわけでもない。それぞれに父と母があり、そしてその父母にもまた父母があり、そのまた父母があり・・・すべての人は、はかり知れない過去から現在に至る「へその緒」でつながっているのである。
これは肉親の縁であり、その一人一人の宿命でもある。決して、一人で仔在しているのではない。連綿と続く、血のつながりの中に在るのである。
この事実に思いをはせ、今の自分を生み出してくれた御先祖にまず感謝の念と恩に報いるという気持ちをもってもらいたいと私は思う。これは大変大事なことなのである。
恩に報いたいと思えば、次に、どうにかしてその気持を御先祖に届けたいと考えるのが当然であろう。この気持を表わす行為が、先祖供養なのである。すでにこの世にいない人々に対して、現世に生きる我々には祈るという「孝行」しかできない。どうか、よき所に生まれてほしい,成仏してほしい'と祈るばかりである。
こうした気持で先祖供養を行なうのであるが、この功徳は、実は、祈る人、つまり現在生きている人にも大きく及んでくるのである。回向という言葉を聞いたことのある人は多いと思う。善行を積めば、それは巡り巡って、善い結果として現われてくるのである。これは、頭で考えたり理屈をこねたりしてわかることではない。善行を積む、即ち、ただ感謝の念で供養を行なえば、自ずと分ってくることである。逆にいえば、行なわない限りは、決して巡って来る
ものではないわけである。
先祖を大切にしている人々の中には、自分の会社や団体の先祖ともいらベき人、つまり、これまで支えてきた物故社員ヘの供養も欠かさない人が多い。当院でも多くの供養がなされているが、これらの人々は、当院へみえられる度に、一回りも二回りも大きな人物となっているように感じられる。日々の感謝の気持とその恩に報いる供養という行為が、その人を豊かにし、周囲の人望を集めているのであろう。
こらした人々が仕事に成功し、人生を生き生きと送られているのを目にするにつけ、先祖供養の大切さを一人でも多くの人に一日でも早く知ってほしいと、攻めて考える次第である。
昭和五十八年十一月
三浦 道明
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