3 先祖のお墓のあり方
お墓には生前たてるものと、死んでからたてるものとがある。生前につくるものを寿陵と呼ぶ。真言宗などでは、逆修などともいう。
そこで墓にまつわる迷信は限りなくあるが、基本的には先祖、即ち死者の安住の地であるから、きれいにしておく占いうことと、供養を重ねるということでお参りをするのである。そして、未来永劫、誰がそれを守り統けていくかということに最も重要な要素がある。いくら立派なお墓をたてても、管理、清掃が行き届かず、お参りする人がなくては、先祖も淋しいであろうし、あまり気持のいいものではない。人間は生まれて、やがて死んでいくわけであるから、時々刻々、時代は変わっていく。しかし、故人を記憶している者がこの世にいる間は親近感もあり、懐かしさもあって墓地に足を運ぶが、全く顔も知らない先祖ともなると、人間は横着なもので、つい疎遠になる。お墓をまつるについて、墓相学云々という以前の問題として、お墓参りをするということが最も大事で、そのために、故人に関して記憶のない者であってもお参りしやすい、また、お参りしようというような所に先祖の墓はしつらえるべきである。
ということは、あまり遠くて辺鄙な所、交通の悪い所などは好ましくない。少々距離はあっても、お墓参りをしようという雰囲気の生まれるような所がよい。例えば、自然に囲まれていて墓参りを兼ね森林浴ができるとか、ただ残された者がお参りするというのでなく、法要も務めてもらうために近くにお寺があるとか、あるいは寺の境内だとか、このような所が望ましいわけである。核家族化、都市化によって家族はますます分散し、その居住地もお互い遠くなってしまった。そうすると、つい、墓参ということを多忙に紛れて忘れてしまったから、先祖の墓を守る者が定期的に法事を催すとか、親族を集めるとか、人々が集まる機会というものを企画するべきてある。
お盆や彼岸の墓参も、これは仏教行事、季節の句読点として古来からあるから、お参りする必然性かあるわけであるが、これと同様、無縁にならないために様々な企画を考え、これを親族間において習性化することである。追善供養のところでも述べたが、墓参りをするということは、参る者に大きな功徳がもたらきれるわけで、筆者自身も各種の講演会において、もし人生の中で壁にぶつかってどうしようもない時には、よく墓参を勧めるのである。それも、続けて参ると不思議と巡りがよくなり、実感として把握できるに違いない。先祖の子孫に対するいつくしみと、墓参という善行が巡り巡って、お参りする者に注がれるわけである。
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