3お寺に頼む先祖供養
先の項でも述ベたように、先祖供養は基本的に子孫がするべきである。しかし、俗人がこれを行なうと、叶った形というものを知らないから、どうしても粗略になりがちである。そこで、専門家たるお寺や僧侶にこれを依頼し、その不足した部分を委ねるわけである。
お寺や僧侶に頼むということは、まず、完全看護の病院と考えてよい。また、寺というものは永続性があるために、永代にわたって叶った形で供養されるということである。昨今では、郷里を離れて他所ヘ居を構えるとか、核家族化するとか、外国に移住するとか、かつてのように近親者が近くに住むということがなく、分散傾向にある。距離というものの隔たりが大きくなった。そうすると、勢い、墓参りをするにしても、先祖がまつってある本家の仏壇にお参りするにしても、三度がニ度になり、二皮が一度になり、結局、疎遠になってしま
う。また、身近にありながらつい忙しさにまぎれて、おっくうになってしまう。そういう意味から、お寺に先祖供養を頼むということは、まことに叶ったことである。たとえ粗略になっても、お寺では拝んでいてくれるわけであるから安心である。また、家の仏壇やお墓が近くにあって墓参りも欠かさずやっていても、なおその供養の功徳を積むという意味から、お寺でやってもらえばこれにこしたことはない。
ここで寺としていいたいことは、永代供養料を収め、お経料、お供えを収めているからこれで先祖供養こと足れり、と考えるべきでないということである。寺としては粗略のないよう心するが、やはり子孫であってみれば、お参りをすることが大切である。お金でもってすべてを任せきり、これで安心とするのは、あまりに人の心がなく、先祖も寂しがるのではなかろうか。
先祖供養の場合、十三回忌等をすぎると、どうしても疎遠になる。だから、昔からこれらの位牌を寺に収めたものである。ましてや、三十三回忌、五十回忌となれば、世代も変わり、記憶している人もごくわずかになることから、つい粗略になることを避け、お寺に預けて永代の供養を顧うのである。人間は時を経、世代が変わる毎に、どうしても過去のことが疎ましくなるものである。そういう意味からすると、お寺に預けるということは、まことに叶った方法といえるのである。
|