1″形″ある存在が必要
先祖供養、水子供養に限らず、総て形ある存在が必要である。
人間は死んでしまえばお骨となり墓に埋められ、いってみれぱ、形というものがなくなってしまう存在である。せいぜい形として残るのは、このお骨をまつったお墓ぐらいのものである。
しかし、たいていの場合、戒名が授与され位牌が作られる。これは、形がなくなったものを形ある存在として伝えようというものである。
それはなぜかというと、人間というものは拝む対象、即ち,形″というものがなければ、意識も稀薄になり、行為もおろそかになるということである。加えて、習俗として昔から、位牌のような形をしたものに霊が宿ると人間は考えたのである。そのため墓地にたてる塔婆も、キリスト教で十字架をたてるのも、また、菩提を葬う意味から寺や塔をたてるのも、総て功徳と され、ここに霊が宿り、それを拝むことによって霊が慰められると考えたのである。
仏教が一切空を説くというところから飛躍して、形があってもなくても同じではないかという論理がある。確かにその考えを延長すれば領けないこともないが、拝む対象として仏像があり、大きくいえば寺があり、伽藍を整えるということも、人間というものは信仰や手を合わす時に対象がなければその気持にならない、ということを考えてのことである。特に位牌については習俗の面からもこれを良とし、そこに戒名を刻んだわけである。
さるテレビ番組に筆者が出演Lた時、あたかも仏教やこれら習俗を熟知した顔である仏教評
論家が出演し、形″否定論を展開したが、それでは、あなたのお家に仏壇や位牌はないですか」と間うたところ、本家にあるということであり、自分は拝む対象として仏様が一体あるのみだということを述べた、まさに語るに落ちるで、形ある存在を否定しながら我家に仏像をまつり、拝んでいるわけである。
その矛盾にも気づかない、薄っペらい論法にただただあきれるばかりであったが、仏教に限らず、形というものはあらゆる宗教で尊重し、キリスト教においてもマリア像と教会を、神道においても神殿を、お社を、鏡をまつるのも、すべて共通の意識の上に立ってのことである。
このように先祖をまつる場合、形あるものとしてまつるということは一番好ましい。
いってみれば、今は姿なき先祖を位牌という形に転化せしめたわけで、重要な存在といわなければならない.
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