4 先祖供養の意味と供養のいろいろ
供養には、僧侶を招いてお経をあげること、その仏事に集まった人々に布施をすることといろいろあるが、一般的に仏前にお供えする供養について述べよう。
なお、供養について必要なことは、客人を迎えるような気持を心からもつということである。
お客様を迎えるについて、
いくら山海の珍味をたくさん並ベてみても、接待をするものが心をこめて迎えなけれぱ、客もまたくつろぐこともできないし、食べてもうまくないはずである。すべて心をこめて迎えるならば、一膳のご飯でも心が通じて、客は喜ぶものである。だから、先祖や仏に対して供養する場合、お花一本たてるにしても、ただ習慣的にたてるというのではなく、心をもってするべきである。
さて供養といえぱ、通常、仏前にお水、塗香、花、焼香、飲食、燈明などを供える。そして、これを六種供養という。仏教の六波羅道と関係が深く、お水は布施行であり、塗香は持戒行であり、お花は忍行、焼香は精進行、飲食は禅定行であり、燈明は智慧行を意味している。
そこで、先ほども述ぺたように、供養というものは客人を心して迎えるのと同じ心構えが必要といったが、その心も物も共に清らかである必要がある。心が清くても物が不浄であったり、物が清くても心が不浄であったり、心も物も不浄であってはならないわけである。
例えば、何日もかえない水だとか、壊のたまったような腐った水などは好ましくない。飲食も同じである。
線香も、香り高いものが理想とされる。お花も、生花でなけれぱならない。古くて妙な匂いを放つようなものでは、意味がないわけである。
心の場合の不浄とは、信心だとか報恩感謝の心が欠けていてはならないし、また、強いられ
ていやいや供えたり、他人に見られると都合が悪いからといって供えたりするものではない、
ということである。
ところで、水とは仏教で「あか」というが、元来、水というものは不浄な汚れを洗い清めるもの
とされている。
心の迷いもさっぱり洗い落としたいものである。
また、水というものは、考えてみると、遍く行き渡って、総てに潤いを与えるものである。灌頂といって帝王が即位する時に頭の頂きに水を注ぐのも、また、洒水といって、仏前で散杖を用い浄めるのも、いずれも、水が清らかであり清めるものであるという考えから成り立ったものである。
特に洒水器に香を投じたり花を投ずるのは、よりその水を清めようというものである。
次に塗香であるが、仏典にも「持戒の香を用いてその身に塗摩せよ」と書かれているように、芳しい匂いの香のことである。これをもって、体とか手を清めるわけである。元来、インドは熱帯国であるところから、このような香をもって彼らの体臭を防ぎ、清涼感を味わったものだと思われる。
通常、僧侶はこれを指先でつまみ、両手に塗り、そして体全体を清めるような作法を行なうものである。塗香は、所によって求めにくいものである。
なぜなら、広く市販されていない。しかし、お香を取り扱っている店に行けば入手することができる。もし香がない場合、樒の葉を器の中に盛って、塗香と思ってお供えをすればよいわけである。
次にお花である。花というものは、見る人をして心を和ませ、安らぎを与える自然の美である。このような心を日常生活に活用するならば、どんなことをいわれようと、よく忍ぶことができるわけである。花が咲き誇っているように、人それぞれに微笑みをもって接すれば、相手もそのような心になる。花を忍辱行にあてるのもこのよらな意味があり、「忍辱もって華鬘となし、その味を荘厳せよ]とも仏典に説かれている。
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